2026年7月6日 木田国際税理士事務所 代表 税理士 木田穣
シンガポールは治安が良く、税制が魅力的で、金融も強く、教育水準も高いことから、海外移住先として非常に人気があります。しかし、永住権(PR)の取得を検討する際には、税制やビザ要件だけでは測れない重要な論点があります。それが「兵役」です。
多くのケースでは、シンガポール移住の期間を3〜5年程度で想定しており、永住権までは考えない方がほとんどです。この場合は、現地法人を設立し、その法人を通じてEmployment Pass(EP)を取得する方法が代表的な選択肢です。一方で、シンガポールを数十年単位で本拠地にしたい、永住権取得も考えたいという方もいらっしゃいます。
シンガポールの永住権は、昔は今よりもかなり積極的に付与されていました。2008年には年間で約7万9,000件の永住権が付与され、2007〜2009年の3年間だけで延べ約20万件にのぼります。しかし2009年以降、外国人の急増に対する国民の不満や住宅価格の上昇を背景に、政府は移民政策を引き締め、新規永住権の付与は年間およそ3万件規模に絞られました。
投資家向けのグローバル・インベスター・プログラム(GIP)も、2023年3月15日の改定でハードルが大きく上がっています。事業投資ルートは1,000万シンガポールドル(約12.5億円)、指定ファンド投資ルートは2,500万シンガポールドル(約31.3億円)、ファミリーオフィス・ルートでは2億シンガポールドル(約250億円以上)の運用資産を持つシングル・ファミリーオフィスを設立したうえで、5,000万シンガポールドル(約62.5億円)をシンガポール関連資産に配分する必要があります。EPやS Pass保有者もPR申請は可能ですが、長年滞在していたという事情だけで自動的に認められるわけではなく、経済的貢献や家族構成、社会への統合可能性などをもとに総合的に審査されます。2024年には付与件数が約3万5,000件まで回復し、2026年には年間約4万件への引き上げ方針も示されていますが、審査は依然として厳しいままです。
シンガポール永住権の最大の注意点の一つが、National Service(NS、兵役)です。まず重要なのは、「永住権を取った本人に必ず兵役がかかる」わけではないという点です。経営者本人が就労実績や投資家スキームを通じて第一世代の永住権者としてPRを取得した場合、本人は行政上NSを免除されるのが原則です。
問題は、その男子のお子さんです。親のスポンサーによってシンガポールPRを取得した男子(第二世代永住権者)は、シンガポール国籍を持っていなくてもNSの義務を負います。多くの日本人経営者にとって、シンガポール永住権の兵役リスクは、自分自身の問題というより、息子さんの人生に関わる問題なのです。
NS義務のある男子は16歳半でNS登録を行い、原則18歳で入隊、2年間のフルタイム兵役に就きます。基礎軍事訓練、体力錬成、武器の取り扱い、野外訓練といった本格的な軍事訓練で、部隊や基地での勤務が基本になります。2年間が終わった後も、Operationally Ready National Serviceman(NSman)として、一般に40歳まで、士官の場合は50歳まで予備役の対象となり、毎年の召集訓練(In-Camp Training)の対象になります。
シンガポールは、歴史的にマレーシアやインドネシアとの間に緊張関係を経験してきました。1963年にマレーシア連邦に加わったものの、政治的・経済的対立や民族間の緊張を背景に1965年に分離独立し、その後も水の供給や領有権をめぐる敏感な問題がありました。1960年代にはインドネシアとの間でも緊張があり、シンガポールで爆破事件が起きたこともあります。現在ではいずれの国とも良好な関係にありますが、こうした独立の成り立ちから、シンガポールには「国は自分たちで守らなければならない」という感覚が非常に強く根付いています。
今すぐシンガポールが大規模な戦争に巻き込まれる可能性が高いと煽るのは適切ではありませんが、低確率でも起きたときのインパクトが大きいからこそ、制度として備えているというのがシンガポールの考え方です。実際、2026年にも約3,000人のNSmenが動員される予備役演習が行われています。安全な国だから兵役が軽いのではなく、安全な国であり続けるために兵役制度がある、という順番で理解する必要があります。
ビザは、ある意味では「お客さん」として滞在する資格であり、基本的には条件を満たしている限りその国に滞在してよいという許可です。一方で永住権は一段深く、その国に長期的に住み、社会の一員に近づき、場合によっては将来の市民権にもつながるものです。そうなると、権利だけでなく義務も重くなります。シンガポールの場合、その象徴が兵役です。
親がPRを取り、子どももPRを取れば、男子の子どもには兵役義務が生じる可能性があります。これは税率やビザ要件だけでは測れない問題です。実際に、小学生の息子さんがいる日本人のお母さんが、息子さんの将来の兵役について納得したうえでPR申請をしたケースもあります。良い面だけを見て移住を決めるのではなく、その国の制度・義務・後戻りの難しさまで含めて、家族で話し合ったうえで判断することが重要です。
シンガポール永住権は、税制や治安の良さといったメリットの裏側に、男子のお子さんへの兵役義務という重い論点を抱えています。特に男子のお子さんがいる家庭でシンガポール永住権を検討している場合は、税制やビザだけでなく、兵役、教育、将来の国籍、家族の納得感まで含めて慎重に判断することをおすすめします。
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